明治時代

3千歳座時代

救世主として登場したのが、両国米沢町の加藤市太郎でした。
座長として興行を行いたいとの出資の申し込みがあり、明治18年(1885)1月4日から、久松座は千歳座と改称して新築開場することになります。
14代目長谷川勘兵衛による設計の千歳座は、外回りは白壁、江戸末期の御多門櫓式に海鼠壁など歌舞伎の古風な形を復元した一級劇場でした。
こけら落しは興行を守田勘弥が仕切り、市川團十郎・尾上菊五郎・市川左團次をはじめ堂々たる第一級の役者が勢ぞろいしました。
「四千両小判梅葉」「盲長屋梅加賀鳶」「籠釣瓶花街酔醒」といった今日も繰り返し上演される名狂言はこの時代の千歳座で初演されていました。
しかし運悪く明治23年(1890)5月に出火、千歳座は焼落します。
こうした前史があって、いよいよ明治座として新築開場するのが3年後となります。

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