明治時代

520世紀の明治座

いよいよ20世紀に入った明治34年(1901)、伊井蓉峰一座の新演劇(新派)がはじめてかかり、シェークスピア原作「該撒(シーザー)奇談」などを上演するなど、歌舞伎を中心にして、時おり毛色の変わった興行を差し挟むようになっていきます。
明治36年(1903)になると川上音二郎一座が初登場、シェークスピア(当時はセーキスピアと書いていました)の「オセロ」を翻案、“正劇”と銘打って上演しています。
この年、演劇界は転機を迎えます。
五代目菊五郎、九代目團十郎が相次いで亡くなり、翌37年(1904)8月、明治座は座主左團次を失います。
左團次は、亡くなるこの時まで実質上の座元として、地方巡業は行うものの東京の他の劇場には一度も出演することはありませんでした。
左團次亡き後、明治座の座元は息子の市川莚升が後を継ぎました。このときは弱冠25歳。
突然の父の死から座主の責任を負わされたかたちでした。日露戦争による不景気に加え團菊左が相次いで亡くなったこともあり歌舞伎界が衰退である中、明治39年(1906)9月、莚升の二代目左團次襲名を迎えます。
しかし襲名興行は大盛況で、その襲名の純利益を使って、ヨーロッパからアメリカを視察し帰国、その後劇壇の改革児として、明治末年まで明治座を牽引します。

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